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君に触れたい、君に触れない。

彼と付き合い始めて3年がたったというのに、私と彼は手を握ったことすらなかった。

彼には「症状」があったからだ。

彼は、自分の恋人の手はおろか、人の体に触れることすら恐怖のためできない。彼が行ってきた長年の治療のおかげで、ものはかろうじて手に取れるようにはなったが、人間を含む血の通う生き物に触れることは、彼にとっては死より怖いことだった。

今から3年前、私はそんなことを何も知らずに、彼に告白し、そして恋人として付き合い始めた。

彼は自分の「症状」を私に黙っていたが、初めての彼とのデートのときに、すぐに発覚した。

彼が私よりも数歩先を歩くので、ちょっと小走りに追いつこうとした。

そして、他のカップルみたいに、彼の手をつなごうと、彼の左手に手を伸ばした。

彼の左手に私の右手が触れたその瞬間、

彼は、とたんに声にならない悲鳴をあげた。顔を真っ青にしながら。

「え……!」

私は何が起こったのか分からなかった。彼の身にいったい何が――?

「あ……ごめん……」

彼は我にかえると、うつむき、くぐもった声で言う。

「なんで謝るの?」

「ごめん……ホントにごめん……」

私は、
「謝らなくていいから!一体どうしたの?あんな声あげるなんて……」
と彼に尋ねる。

彼はうつむいたまま、

「ものに触れないんだ」

「……え?」

「なにもかもが怖くて。もしなにかに触ったら、今みたいに……」

「うそ……」

私も彼もそれ以上何も言えなくなった。

私は、彼のことばを、なんとなくだけど、こう解釈した。

私と彼は恋人でありながら、キスをしたり抱き合ったり、いや、手をつなぐことすら許されない、と。

――でも、たとえそうでも、私は――。

彼は口を開いた。

「ごめん……俺みたいなやつが、人と付き合う資格なんてないよな」

「……そんなこと」

私は――決心した。

「そんなことないから!」

――彼のそばに、ずっといよう。

「私、君の彼女だよ?君のこと全てを愛するから!だから、人と付き合う資格ないなんて、もう言わないで!お願いだから……」

その日を境に、周りから見たら微妙な、でも、私たち2人には絶妙な立ち位置で付き合い始めた。

「症状」さえなければ、彼は誰よりも優しくて、私をときめかせた。

私はそれに答えられるように、「間接的な愛」を彼に注いだ。

「今日もうまそうな弁当だね」

彼はウェットティッシュで手をごしごしとこすりながら言う。彼にとっては、自分の体の一部分であろうとも、自分を恐怖させるものだった。

「うん、今朝も早起きしてがんばったよ!!たくさん食べてね」

「偉いえらい!それじゃあ、いただきます!」

彼は私の作ったお弁当を残さず食べてくれる。私と付き合う前は、自分の親が作ってくれた弁当か、コンビニの密封されたパンや惣菜しか食べられなかったというから、これが彼なりの優しさだ。

でも……。

「ねぇ、他の子にも優しいの?」

私はここ最近ずっと心に引っ掛かっていたことを尋ねた。

「え?」

「みんなに優しいよね。なんかやきもち」

「そんなことないよ!俺は、」

彼はきっぱりと言う。

「お前だけを愛してるよ」

「……だから、私のことお前って言うの、やめてよ」

私は顔が赤くなるのを感じた。

「でも……ありがと」

恥ずかしかったけど、嬉しかった。

嬉しくて、思わず、わがままを言ってしまった。言ってはいけない、わがままを。

「いつか君と手をつないで歩きたいな。できるといいね」

「……」

私は言った後ではっとした。彼がうつむいてしまったから。

普通の恋人なら当たり前のことなのに、私にとっては叶いそうにないお願いごと。

「……ごめん……」

私と彼は黙ってしまった。

沈黙を破ったのは彼だった。

「……手、つなごうか」

ぼそっと彼はそうつぶやく。

「え?」

「帰り、手つないで帰ろう。……大丈夫、もう何年も治療してきたし」

「だめだよ。君に無理してほしくない」

彼の苦しむ姿は……初めてのデートの時に見たあの苦しそうな顔だけは……もう見たくない。

でも、彼はいつにも増してまぶしい笑顔で言う。

「ホントに、大丈夫だから」

「私が大丈夫じゃない」

私は思わずきつい言葉になってしまった。

「あ……ごめん……」

私は自分の矛盾した発言を反省した。

「さっきから私、わがままばっかりで……でも、でも……」

「こっちこそ、ごめん……」

そう言ったきり、お互いまた黙ってしまった。

何を言っても彼を傷つけそうで、私は何も言えなかった。

「……あ、もう時間だ」

彼は立ち上がる。

「気分悪くさせてごめん。じゃあ、帰ろうか」

帰るときは帰る場所は違えども、なるだけ一緒に帰る。それが私たちの決めたこと。

「……うん!」

私は無理やり元気をふり絞るように、そう答えた。

その日の帰り道。

私はいつものように、彼の右側に並んで、一定の距離を保って歩く。

でも、その日は、いつもと違った。

彼が急に、2、3歩前に出る。

彼は手を差し出し、

「さぁ!」

とほほ笑む。

私は胸がいっぱいになった。

――苦しいのに、私のために――。

私は彼の手をとった。と、とたんに彼の顔が歪む。

――!

私はすぐさま彼の手を離した。

「やっぱりだめだよ!」

私は泣きそうになる。

「ごめん……」

「私、十分だよ!もう無理しなくていいから!」

「ごめん……」

「もう、今日の君、謝ってばっか!」

「ごめん……」

と言った後で彼ははっとした。

「また、ごめんって、言っちゃった」

「いこっ!」

私はできるだけ気丈に振る舞ったつもりでそういうと、彼に顔を見られないように、彼を置いて早足で歩く。

「怒ってるよね?」

後ろから彼の声がする。

「おこってなーい!」

「うそだー!」

私は目から涙がこぼれそうになりながら、彼の数歩前を歩く。

「俺、もっとがんばる!いつかお前と手ぇつないで歩けるようにさぁ!」

後ろからのその声に、私は立ち止まった。

「君は、そのままで、いいんだよ!」

振り返らずに私は言う。

「……え?」

今度は彼のほうを振り向いて言う。

「他の人たちとおんなじじゃなくていいんだよ!」

「……そう?」

「いいよ!いいんだよ!」

彼は微笑む。

「お前は強いなぁ!」

「……君のおかげだよ!」

「……!」

「君に、君に、出会わなかったら、私、ちょっとしたことで、不安になってたと思う!……いや、」

私は言葉に詰まりながらも続ける。

「今もだよ……今も不安だよ……」

「え……」

「君が他の子に優しくしてるの見てると、不安でいっぱいで……君が他の子の所に行くんじゃないかって……でもね!」

「でも?」

「私だけが、君のいいところ全部知ってる気がするよ!」

「それは、」

彼はまじめな顔で言う。

「俺もだよ。俺もお前のいいところ全部知ってるよ!」

「うん!」

そして、私も彼につられてまじめな口調で言う。

「私たち、ずっと一緒だから」

「……恥ずかしいなぁ」

彼のまじめ顔は、笑顔に変わっていた。

私は彼の横に並んだ。

いつもの距離で。

触れたくて、でも触れることのできない距離で。

でも、これでいいんだと今は思える。

これからも彼はみんなに優しくて、これからも私はそれを見てちょっと不安になって、彼の言葉だけでは足りなく感じたりするだろう。

でも、私たち2人にはある。他の恋人たちにはない、目には見えない、か細いけど強いつながりが。

「帰ろっか」

「うん」

そして、また歩き出す。2人一緒に。

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2014年8月の管理人ぼやき

氷室京介さんのラストライブまでに、航空各社が精神障がい者割引を始めてくれることを切に願う今日このごろです。

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